新しいことのない日々
何か新しいことをしようと思っているのだが何にも意味を見出せない。何かを始める時、少しでも障害があると萎えてやめてしまう。何かに熱中するということはこんなにも難しいことだったのか。
ぐうたら生活
人は幸せになる為に生きる。夢を叶えようとするのも幸せになる為だ。幸せの形は人それぞれだから、ぐうたらするのが幸せなら、それでいいんじゃないか。
それに幸せを感じなくなったら、新たな幸せを求めて動き出せばいい。少しずつ幸せを変化させれば、人生になる。
ネットというバリアフリー
「最近の若者はダメだ」と口癖のように言う人がいる。人の目を見て話が出来ないだとか、ずっとスマホを触っているだとかそう言う人間はダメだという考え方があるらしい。しかし本当にそれはダメなことなのだろうか。
人と会話するのが苦手な人はいつの時代にだっていただろう。そういう人が出世できないような社会になっているから、昔は淘汰されるか、努力して会話出来るようになるかの二択しかなかったのかもしれない。
近年ネットやSNSが新たなコミュニケーションツールとして登場し、そこは会話するのが苦手な人にとってのオアシスだ。そしてオアシスがあると一部の人は努力しなくなるから、会話への苦手意識が加速するのかもしれない。そういう意味ではネットやSNSは人をダメにしている、と言えるかもしれない。
しかし苦手なこと、できないことを無理やりやらせるのが本当に良いことだとは限らない。それは足腰の弱い人、足の不自由な人に無理やり階段を上らせてるのと同じである。それが良くないと考えたから、スロープがあるはずだ。ネットやSNSはいわばバリアフリーの一種である。人と会話出来ず、自分の世界に引きこもりがちな人間でも何かを発信し、また受信できるようになったのである。
会話が苦手な人がダメなのではない、社会がそういう人の活躍の機会を奪っている。これからネット世代が社会を作っていけば、意識も変わって来るのではないだろうか。
三日坊主どころか
完全に日記を書く前に寝ようとしていることに気づいて、慌てて書き始めた。
何を隠そう、日記に書きたいと思うようなことが何もないのである。いつも通り家でゲームして大学の食堂で飯を済ませて1日が終わった。
これではダメだと思いつつ、何がダメなのかわからないという漫然とした生活に対する不安感だけが残る。
自分は本当は何をしたいのだろうか、明日はもう少し出かけてみようと思う。
初投稿
あまり家からも出ず、ただ時間だけが過ぎる日々をおくっているため、日記でも書こうと思って始めた次第。
日記を書けば、日記に書くことのために何か新しいことに挑戦できるかも、という淡い期待を込めて。